美人考
- 2012.10.21
- 『美の追究』~審美と噛み合わせのハーモニー~
1991年から4年間に渡り、歯科の専門誌に『美の追究』というタイトルで、当院顧問の稲葉繁が、審美歯科について連載させていただいておりました。
当院の審美歯科治療は、すべて、このコラム『美の追究』を原点としております。
私たちが考える、審美歯科は、歯を白くするだけの技術ではなく、もっと根本的な審美の法則に基づいております。
このブログを読んでいただいている読者の方にお伝えすることが出来ればと思います。
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ナイルの魔女・クレオパトラの美
「クレオパトラの鼻がもう1センチ低かったなら世界の歴史は変わっていただろう」というセリフはあまりにも有名で、絶世の美女の典型として広く語り伝えられ、文芸作品としてもシェークスピアの『アントニーとクレオパトラ』 、ショーの『シーザーとクレオパトラ』はよく知られている作品です。
彼女はプトレマイオス11世アウレテスの次女として生まれ、古代エジプトのプトレマイオス朝最後の女王(在位51~30B.C)でした。
マケドニア・ギリシャ系の夫人で、エジプトの地は混じっていません。才色兼備、高い教養をもち、そのうえ美貌の持ち主だったため、カエサルとアントニウスという2人の将軍を恋の虜にしてしまい、ローマ人からは「ナイルの魔女」として罵られましたが、巨大なローマに対抗してエジプトを守ろうとしたヘレニズム世界最後の女王の悲惨さと、魔女的な美貌の歴史には興味が尽きません。
美人にまつわるドラマは古代も今も盛んであるようで、いつの世の中も美に対するあこがれのようなものを持っています。
しかし、何が美で何が醜であるかの基準はあいまいであり、その時代の風俗習慣や宗教などが深く関係しています。
相対的価値観と絶対的価値観
『老子』 の第二章には美に関して次のように述べられています。
「天下、皆な美の美たるを知るも、欺れ悪のみ。皆善の善たるを知るも欺れ不善のみ。・・・・」
世間の人間はみな、美しいものが美しいということを知ってそれに執着するが、彼らの美しいとする者は実は醜いものなのです。また、彼らの善いとすることは実は善くないことなのです。人間の考える美と醜、善と不善とは、相対的な価値であり、評価の立場を変えれば美も醜となり、醜も美となるからです。 同様にしても善もまた絶対的な善ではありえず、不善もまた絶対的な不善ではありえません。価値を変えれば、善もまた不善となり、不善もまた善となるからです。聖人が美と悪、善と不善の相対性を明らかにして、その根源にある本来的な一体性を凝視するのに対して、世間一般の人間は相対的な価値の一方だけを固執し、排他的、独善的、一面的な価値観にしがみつくというのです。
ここで老子は、人間の定立するさまざまな価値概念や存在規定が要するに相対的なものであって絶対的なものではないこと、にもかかわらず、それを絶対的なものであるがごとくに錯覚して万物を勝手に下げつし秩序づけ、あるがままの世界を湾曲して己を縛り他を釘付けにする、人間の愚かさと危うさとを警告しています。
「不二の美」とは
仏教の教えの中でも阿弥陀如来になる前の法蔵菩薩が『大無量寿経』 の中に記されている48大願中の、「無有好醜の願」で設我得佛、国中人天、形色不同、有好醜者、不取正覺、すなわち、「もし私が佛になるとき、私の国の人たちの形や色が同じでなく、好きものと醜きものとが有るなら、私は佛になりませぬ」と説いています。さらにこのことは「佛の国においては美と醜との二つがないのである」という意味も含んでいます。
一般には、人の体の大小とか、容貌の上下とかの差別のない世界のことを示しているのだと注釈されています。
このことについて柳宗悦は、彼の還暦に際して上梓した『美の法門』の中で、「不二美の願」として美醜の人間を許さぬ究極の世界について彼岸を示したものと考え、「不二の美」は『醜でもなく、美でもないもの。美と醜がまだわかれない前のもの。美と醜とが互いに即してしまうのもの。反面に醜のない、美それ自らのもの」とし、「無上に美しいものは、美とか醜とかにいう二元から解放されたものである。醜さを恐れ、美しさに囚えられているようなものは、真に美しくはありえない」と述べています。
さらに、「美醜というのは対辞である。美があれば醜があり、醜があれば美がある。どうして美醜があるのか、それを二つに分け、そうしてその一つを選ぼうとするのか。なぜ醜を捨てて美を取らなければならないのか。なぜ美が讃えられ醜が呪われるのであろうか。それなのにあるものだけがより美しくなれなくて、多くのものが醜くなるのか。人の姿も美醜に分かれ物の形も色も美醜に分かれる。分かれてしまうことをどうすることも出来ない。それ故可能な限り醜さを捨てて美しさを選ぼうとする。誰も美しくなろうと様々に苦しむ。だがどうしてこんな重荷が我々の上に課せられてくるのであろうか」と問います。
佛の国は無上の国なのである。どこに美醜の二つがあり得ようか。その無上なものに支えられているのが、我々の本性である。この本分には二相がない。一相すなわち無相にいるのが我々の実相なのである。美醜の二相は仮相に過ぎぬ・・・・と。
口元の美しさがポイントになる時代
ここに1枚の絵を思い浮かべるとします。巧みに描かないければ美しくならないよというような絵は十分に美しくないはずです。
不完全を嫌う美しさよりも、不完全をも入れる美しさのほうが深いと感じます。つまり、美しいとか醜いとかいうことに頓着なく、自由に美しくなる道があるはずです。美しさとは無礙(むげ)である時に極まります。
では、いったい美人とは何でしょうか、その基準はいまだ曖昧です。それは国によりまったく異なります。
南太平洋のある島では、太っている人ほど美人であったり、またある国では下唇の内側に大きなお皿を入れ、下唇が大きく張り出している人ほど美人であったりします。
以前日本の美人コンクールでは、歯のきれいさはさほど審査の対象になっていなかったと思われるような、歯並びの方もいましたが、今では、口元の美しさは非常に重要なポイントになっています。
こちらは、日本人としては初めてミス・インターナショナルに選ばれた、吉松育美さんです。
本当に綺麗です。
そして、とても素敵な歯並びをされていますね☆♪
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